2009年11月5日木曜日

patron

友人の書いた、面白い話しであり、大事なことだなと考えさせられる文章です。 そうなって欲しいものです。

  それでは、ドウゾ。  

個人的にH&Mで買い物するのを控えているのは、質の問題よりも、しこたまぼろ儲けしてそうなクラブには缶ビールを持ち込む際の心のあり方に近い。
 ファッションを文化だと捉えたとき、プレタポルテが中心となっていることや、当たり前のようにファッションが社会学されることを考えれば、所謂リアルクローズも文化の範疇に入れるのは妥当だと思う。
 そして文化、というか文化活動が続くためには、パトロン、つまり買い支えする人、が必要不可欠だが、上の流れでいくと、私たちもその中に入っている。服を買うということは、ファッションで自己主張するという文化的身振りという意味以外に、パトロンになるという意味で、文化的行為であり、文化的活動である。シャツをH&Mで買うかオープニングセレモニーで買うかという選択は、自らのアイデンティティの主張とともに、どのような文化を支えていくのかという選択である。その様は、良心的な音楽を流しているクラブではそこで高くてまずい酒を買うとか、これは続かねばならないと信ずる雑誌を購読するのと同じだ。ここでわざわざ書くまでもなく、趣味人ならば日常的に実践している営みである。
 なぜこのような自明なことを書くのかというと、爾来売る方の都合ばかりが目立ち、買い手の役割が不当に貶められていると思うからだ。文化を担っているのは何も売り手だけではなく買い手もそうなのだという、おきまりの文化の受容論をここでは主張したいのだ。消費者は餌を与えられる犬のように何かを買うのではなく、そこには選択することによって文化を創っている。
 何もこれは売り手に対して喧嘩を売っているわけではなく、むしろ買い手側にその辺について意識的になろうぜ、と言いたいのである。そうなってくるとあらゆる買い物は、文化的選択を孕んだ行為ということになり、そんなの忙しいんだからいちいち考える余裕はない、という向きもあろう。ただ、これを実践できれば日本も先進国と称していいくらい豊かになったのだ、という話になる、と思う。

                      Writer N.Y

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